はじめに
伊那西地区に移住された方から、移住のきっかけや伊那西地区に決めた理由などを聞かせていただきました。
今回インタビューを引き受けて下さったのは、伊那西地区に移住をされた高木さん(仮名)ご家族。伊那西地区を考える会との出会いや、移住に向けて起こしてきたアクションをお話いただきました。
(インタビュアー:山崎いずみ)
———そもそも、高木さんが移住を考えたのはどうしてだったのでしょうか?
高木さん)移住前、住んでいた他県では息子を自然保育の保育園に通わせていました。そこの保育環境がとても良くて。学童保育もあるし卒園後はそのまま地区の小学校に行かせたかったですが、小学校の統廃合案が出てしまいました。私の母は元々その地区に住んでいたので、学校を残す可能性がないか試行錯誤を重ねたのですが、結果として統廃合が決まってしまったんですね。
ちょうど新型コロナウィルス感染症が日本でも拡大し始めた時期でした。同時期に息子の同級生のお母さんが3年間の闘病の末に亡くなられて。その彼女が亡くなる直前まで「どうしたら自分の子どもを自然豊かな環境で育てることができるのか」を病室の中でも考え動いていた姿が印象に残っていて。様々な出来事が重なり、緊急事態宣言で仕事も保育園も行けない環境で「私はどうしたいのか」をすごく考えていました。
そんな時、ちょうど母が新聞で伊那小学校の記事を見つけて「なんかここにすごく素敵な小学校があるらしい」と見せてくれたんですね。それが伊那との出会いでした。
———新聞記事が移住に目を向けるきっかけだったんですね
高木さん)子どもには生きていく力をつけてあげたくて。ちょっとしたことでもメンタルが折れない、あとは体力がつけば、あとはどうでも生きていけるかなあと思って。そういう環境を考えたときに、当時住んでいた場所では違うと思ったんですね。
そこからは伊那だけではなく四国や山梨など、全国各地の小学校を色々と調べ始めました。伊那市は当時住んでいた場所からもアクセスが良かったこともあり、候補地としては有力でしたね。
———実際にはじめて伊那を訪れたのはどんなタイミングだったんでしょうか?
高木さん)その年の夏、伊那の小学校を見学したくて伊那市役所に電話で問い合わせましたが、当時は新型コロナウィルス感染症の流行で小学校はどこも見学ができない状況で。見学をやっていない以上は仕方がないと私は諦めたんですが、父が「それなら、小学校の外観や周辺の雰囲気だけでも見に行こう」と言って宿をとってくれたんですね。それじゃあ雰囲気だけでも見に行こうとなり、初めて伊那に向かいました。
伊那小学校、伊那西小学校、新山小学校の三か所を実際に見に行ってみると、現地だからこそ見えてくるものがあり雰囲気も伝わってきて。「伊那小学校は意外と街の中にあるんだね」とか、「伊那西小学校はこんなにすごい森林があるんだ」とか。
あとは伊那小学校と伊那西小学校のオンライン見学ツアーにも参加しました。
それぞれの小学校の特色を知っていく中で「森の中で授業ができる伊那西小学校の環境は私が子育てをしたい環境に近いんじゃないか」と感じるようになりました。
▲伊那西小学校「森の教室」の様子
やりとりをしていた市の担当者にも伊那西小学校が気になっている事を伝えていたのですが、その話の中で「伊那西小学校なら『伊那西地区を考える会』という団体ができつつあるよ」と教えてもらいました。さっそく市を通して会へ連絡をとってもらい、そこから私たちの対応をしてくれたのが、「伊那西地区を考える会」の唐木さんでした。
▲「伊那西地区を考える会」事務局の皆さん
———市が「伊那西地区を考える会」と繋がるきっかけだったのですね。
高木さん)当時はまだ会が出来上がったところだったと記憶しています。唐木さんとやりとりをするようになり、9月開催の伊那西小学校の運動会に誘ってもらい実際に見に行きました。その運動会で、もう家族全員一致で「ここがいい!」と、なりました。
運動会をやっている環境が山林に囲まれているし、小規模なので子どもたちが少ないからみんなが主役。みんなで運動会を作っているのがとても良くて。
▲伊那西小学校の運動会
高木さん母)当時通っていた保育園の運動会がよく似ているんですよ。保育園の運動会は自然の中、裸足でした。こういう運動会なんですよ(当時のお写真をみせていただきました)。なので、もともと自分たちの中で「こういう環境で育てたい」というのが持てていたのでしょうね。保育園時代の環境が理想だったのでまさにという感じでした。
▲通っていた保育園の運動会アルバム
———運動会で見た学校の雰囲気が決め手だったのですね。そこから移住まではどう進んでいったのでしょうか?住まいも探されたんですか?
高木さん)運動会を見て、その場で唐木さんに「伊那西小学校に行かせたい」という話も伝えました。運動会の後には鳩吹山にも案内してもらって。その帰りがけに、唐木さんが「この家そろそろ出るらしいですよ」とさらっと教えてくれたのがこの家です。その時はそのまま唐木さんとは別れたんですが、この家のことがひっかかって帰れなくて。そのまま車を停めていた駐車場で家族会議が始まりました。他にも見に来ている人がいるという話も聞いたので、「いま決めないとあの家はなくなるんじゃないか」って。私は学区の外から通わせてもいいかなと思っていたのですが、父が「ここから通えるっていいじゃないか」と。
それで別れてすぐの唐木さんにもう一度連絡をして「家を見せてほしい」とお願いをしました。唐木さんはすぐ来てくれ、この家の元の家主さんとも連絡を取ってくれて。そのまま家を見せてもらいました。で、もうその日にその場で仮押さえしたんですよ。
———その日に即決されたんですね!この伊那西地区は駅も近くはない、むしろ自然豊かな田舎エリアですが、生活の心配とかはありませんでしたか?
高木さん)そこは何も考えていなかったですね。「この子をこの小学校に入れたい!」という気持ちの方が強くて。私はやっぱり、子どもの心と体を作りたい、その土台を用意したいという思いがあったんですよね。中学高校は体力があれば自転車で頑張ったら通えるかなと思って。田舎はどこも車社会なので、市街地にも近いこのエリアは便利な方だと思いました。
———市で伊那西地区を考える会に繋いでもらってからは、移住までは伊那西地区を考える会に情報をもらっていたのですか?
高木さん)当時、まだ新型コロナウィルス感染症の影響でたくさんの人に会うことができない状況の中、唐木さんには何でも聞いていましたし、とても色々教えてくれました。特に横山地区に住むと決めてからは横山の情報も含めてですね。
高木さん母)「伊那西地区を考える会」が、一生懸命この地区を何とかしようと活動している姿は、わたしたちにとってとても心強く、頼りになりました。
———高木さんたちご家族が「子どもの心と体を育てる環境」を突き詰めていった結果、たどり着いたのが伊那西地区だったのですね。家を決める「即決力」など、パワフルさもとても伝わってきました。後半では、実際に移住することになってから移住した後までの話をお伺いしたいと思います。