◆はじめに

 こんにちは、日下部良也と申します。2001年に30年近く住み慣れた大阪市を離れ、妻と共に伊那市に移住しました。市内で4年間アパート暮らしをしながら木工所に勤めた後、木工家としてますみケ丘で独立。現在に至ります。その間に家族が4人に増えスローライフの中、家族でまとまりながらもそれぞれがソローライフに忙しくしております。

◆このままじゃ、人生ヤバいかも

 さて、なぜ私が移住を決意したかを少しお話したいと思います。

 大阪梅田のすぐそばの大阪市福島区で生まれ育った私は、高度経済成長期に幼少期を、バブル期に高校・大学生活を謳歌し、このまま社会人としてうまく社会の波に乗って大都会で洗練された企業人になる!はずでした。ところが、在学中に病に倒れ、病後はうまく社会に馴染めない数年を過ごしました。これからの栄えある人生を信じて疑わなかった自分に訪れた挫折でした。

 社会復帰はできましたが、また同じ病で人生の足止めを繰り返すのではないかという将来への不安から「何を生業にしていけば、何があっても生きていけるのか」と考え始めました。

 そして、もともと「デザインすること」「何かを作ること」「建築や木工家具」が好きな私は、木工家として手に職があればこの先やっていけるかもしれないと思うようになりました。決意というほどのものではありませんでしたが、何か光が見えてきたような記憶があります。

▲生まれ育った大阪の街

 でもこれだけでは移住の理由にはなりません。大阪でも木工家になれる道はなくはないはず。

 きっかけの一つは「都市生活が機能しなくなったらどうなるんだろうか?」という疑問でした。人工的に作られた都市機能に守られて今まで「いいとこどり」をして生きてきましたが、このままじゃ人生ヤバいという危機感から、この世の中を生き抜くにはどうすればいいのかという問いが生まれ、何に生かされているのかを知らねばと思わされました。そこで頭に浮かんだのは、幼少期によく連れられた母の田舎や信州の山の麓。

「命の源泉である自然に向き合って生きていきたい」

と思うようになりました。ちょっとあと付け感のあるかっこつけた言い回しになりましたが、ただ単に都会の喧騒を離れ忘れ田舎暮らしがしてみたい!と思ったのも事実です。

▲母の田舎

◆導く人、現る

 木工家と一口に言いましても、当初はまだ家具作りをして生きていければと漠然と思う程度で、それがどんな世界なのか全く理解していませんでした。

 ある日、大阪梅田の百貨店で家具の展示会があると知り早速会場へ赴きました。そこには信州の家具工房が多数出展していました。気に入った家具をまじまじと見ていますと

『家具作りをされているのですか?』

と、ある工房の方から声をかけられました。私は『家具はいかがですか?』と聞かれることを予想していましたから、これはもう訊ねるしかないと思い「実はかくかくしかじかでして・・・」要するに

「どうすればあなたみたいになれるのですか?」

と聞いたわけです。すると、その方も脱サラして今に至ること、そして長野県で家具作りをするならまずは伊那市の訓練校で勉強するといいよと教えてくれました。

「はぁ、い・な・し ですか

(はて、どこなんだろう?)

 以後、その工房を妻と幾度となく訪れ、家具作りを拝見したり観光したりしながら移住後の生活について想像を膨らませていきました。

 ところで、『あなたはいいけど、奥さんは納得の上の移住だったの?』と気になるところではないでしょうか。

 そりゃあ初めは衝撃だったと思います。縁もゆかりもないところに行く(転勤でもなければのわたしの勝手で連れていかれる)わけですから。しかし、自然豊かなところで暮らしたいという共通した価値観であったことや、わたしの進路はまだ未定ながらお互いしたい仕事ができそうという点で移住に了解してもらったと思っています。

 まず、住むところはアパートをネットで検索し内見して仮契約。当時まだ車を所有していない我々を、大家さんが親切に車で案内してくれました。車窓から見た街の景色を思い出します。

▲当時住んでいたアパート付近(現在の伊那中央病院付近)

◆道、開かれた

 2001年4月1日。まだ雪がちらつく中、凍えながら引っ越し荷物をアパートに運び入れたのをはっきり記憶しています。

 実は希望していた訓練校の入校は叶わず、(なのに移住してから)数か月の紆余曲折を経て市外の木工所で修行することを許されました。今思えばあり得ないことだと思います。

 そしてアパートと市外の木工所を往復する修行の毎日が始まりました。先に勤め先が決まり通勤していた妻も私も住環境、職場環境、人間関係のすべてが新しく、お互い相当緊張していたのではないでしょうか。休日のたびにストレス解消に信州のあちこちにドライブや日帰り温泉に出かけていました。

 ようやく修行生活に慣れてきた頃、伊那西地区を通る広域農道が、良い通勤ルートだと知ります。広域農道は伊那市中心部から標高100m以上高い山麓を走る景観の良い道路ですが、出勤時の早朝に景色を楽しむ余裕なんてありません。その代わり、帰路は西の空が夕日に照らされて、こんなに鮮やかに赤やオレンジに染まる空があるのかと感動する日々でした。その感動は今も全く変わらず、空をみては「ほぉ~!」と驚嘆しています。

▲ますみケ丘の夕日

◆伊那西がどうしても気になる

 私が地元大阪で出会い、伊那市を薦めてくれた家具工房は安曇野にあります。その山麓周辺には様々なジャンルの工房、お洒落なお店、美術館などが集まり、信州の中でも有数の観光地です。表現する場所として、また都会からの移住先として、大変人気があるのではないでしょうか。

 移住前、私も同様に(伊那で修行して)憧れの地、安曇野で工房を、と目論んでおりました。ところが数年が経ち独立を意識し始めた頃、伊那での暮らしで出会った伊那谷特有の四季折々の自然をはじめ、清々しい空気、都会や観光地にないゆとりある時間の流れ、人々の土と向き合う暮らしぶりに触れ、そして何より今日まで我々を支えてくれた人との繋がりを思うと、

「ほんとうにここを離れていいのだろうか」

と、自問自答するようになりました。迷いの中にありながらも、毎日何気に望む伊那西地区の景観が「ここに工房と住処があればどんなに幸せなことだろうか。ここで次の地を探そう!」と私に決意させるのに時間はかかりませんでした。

 それからは、暇をみつけては《工房設立のための伊那西めぐり》が始まりました。

 仕事帰りに伊那西地区のあらゆる集落をまわり、畑作業に勤しむ方に話しかけ、飛び込み営業のように玄関のインターホンを押して「決して怪しいものではございません、空き家はございませんか、土地はございませんか」と聞いて回る。

 営業マンな風貌でもない者が突然現れてそう訊ねる。どうみても怪しいと思いませんか。追い返されても不思議ではないところ、それが大抵話を聞いていただける。私がよほど追い込まれた顔をしていたのでしょうか、地域の方々の懐の広さ、温かさにふれた日々でした。

 そのような場所探しが1年ほど続いたでしょうか。結果的に平地林の一部を譲ってもらえるようになり、今の工房と住まいができ、今日があります。

 コロナ禍による人々の繋がりの変化、災害の多発化、人口減少など、地域の存続には厳しい世の中ですが、これからの《伊那西ものがたり》をもっと見聞きし、読み続けたいと心から思っています。

 ではみなさん、お会いする日を楽しみにしています。